フローベール「素朴なひと」を読みましたので、感想などをメモしておきます。
ネタバレになる部分がありますので、未読の方はご注意ください。
「古典を読もう!」と思い立ちまして。
定期的に「自分には教養が足りない!」という気持ちに駆られるのですよねえ。
で、今回はフランス文学を・・・とはいえ、難しすぎるのはやっぱりイヤで(笑)。
とっつきやすそうな短いもの、ということでこの作品を選びました。
「三つの物語」という短編集の1話めです。
原題は「 Un coeur simple 」で、「純な心」という邦題を採用している訳者が多いようです。
今回、この訳を選んだのは「光文社古典新訳文庫」が読みやすそうだなあ、と思ったから。
確かに読みやすかったです。
すらすらと読めました。
でも・・・結局のところ、よくわからなかった。
訳に問題があるワケではないです、もちろん。
時代や文化の背景がわからない。
前提知識が欠落してるのです。
「古典」が難しいのは、そういうことなのだよなあ、と改めて考えさせられました。
にも関わらず。
なんとも魅力的で面白かった、これも事実。
なので、この場所に書き留めておこうと思った次第。
たぶん思いっきり的外れで、フランス文学に詳しい方からすれば「何を言ってるんだコイツ?」だろうとは思うのですが。
主人公のフェリシテが、とにかく、徹底的に「素朴なひと」なのです。
2023年の日本ではあり得ない人物像。
いやいや、物語の舞台である19世紀のフランスでも、これほどまでに純朴な人は珍しいのでは、と思うほど。
無知で無学で。
後に、宗教(キリスト教)に接するようになり、信仰を持つようにはなるけれど、教義については実のところ何もわかっていない様子。
けれど、最後には神様に迎え入れられつつ死んでいくような描写になっています。
というか、この人はずっと、生きているときから「聖人」だったのでは、という気がするのです。
存在の仕方そのものが、よくわからないけど何やら尊い、とでもいうのでしょうか。
キリスト教に限らず、宗教に関しては何の素養もない私でも、フェリシテには「聖なるもの」を感じてしまいます。
この「何だかよくわからないけれど尊い感じ」が、私にとってはこの作品の魅力です。
(繰り返しますが、大いなる的外れの可能性が高いことは意識してます。)
この作品のもう一つの魅力が、場面ごとの臨場感。
いちばん好きなのが、牧草地で牛に襲われそうになった場面です。
ご主人であるオーバン夫人とその子供たちを逃がして、牛と対決するフェリシテの姿が目に見えるようで。
他にも、街や港の風景や教会のシーンが魅力的です。
とはいえ、19世紀フランスの街並みや人々の服装など、私の持っているイメージは貧困で、限界があります。
頭の中できちんと再現が出来ているとは思いません。
それでもなお、何だか魅力的だなあ、と感じるのです。
誰か、この作品を映画化してくれないかなあ、映像で観てみたいなあ、なんてことを考えます。
と、ここまで書いたところで・・・。
調べてみたら映画化されたことがあったようです。
どこかで視聴できるかな?
いやいや、やめておきましょう。
「古典」が「古典」として生き残っているのは、言葉そのものの力によるものなのですよねえ、たぶん。
それを理解する素養がない以上、味わい切れなくても仕方がない、ってことなのだと思います。