ずいぶん前に観た映画です。
原作も読みました。
(どっちが先だったかは覚えてないです。)
新たに映画化されたとの話題を見て思い出し、再度観てみた次第。
今観ても、やっぱり良かった。
ずっしりと心に響きました。
書きたいことはいろいろとあるのだけれど、とっ散らかって収集がつかなくなってしまいそう。
で、今回は「父親」という補助線を引いて、それに沿って書いてみようかと。
セリー、シャグ、アルバート、ハーポ、それぞれに父親との関係に問題を抱えた人物なので。
セリーについてはもう、これ以上は考えられない酷いものです。
父親に妊娠させられ、二人の子供を産むのですから。
(後に、本当の父親ではなく母親の再婚相手だとわかるのですが。)
これはもう、時代だとか価値観だとかいう問題ではなくて、人間としてダメでしょ、ってやつ。
こういう男性は今でも一定割合で存在するのだろうな、と思いますが。
セリーが逃げなかったのは、行き場がなくて逃げられなかったのもあるけど、自分が逃げれば妹のネティが餌食になるから、というのもあって。
(この姉妹の絆が、物語の大きな大きな底流となっています。)
シャグは牧師の娘です。
歌手となって自由に生きていますが、それを父親に認めてもらえない。
愛がないワケではないのでしょう、たぶん。
でも、父親にとって娘は「恥さらし」な存在だったのでしょうねえ。
セリーの義父のような鬼畜ではありませんし、積極的に娘の人生を妨害するワケではありませんが、シャグにとっては「受け入れてもらえない」という辛い状況です。
この陰りのようなものがシャグの魅力にもなっていて、セリーがシャグに心惹かれる要因のひとつとなっています。
最終的には父は娘を受け入れ、観ている方も救われた気分になります。
さて、アルバート「ミスター」です。
これがいちばんヤヤコシイ。
セリーにひどい仕打ちをする最低な夫なのですが、根っからの鬼畜なのかというと、実はそうでもなくて。
本気で女性を愛することもあるし。
シャグに対する愛情はまさに本物、という感じです。
じゃあ、セリーに対して何故あんなことになるのか? というと、これが時代やら価値観やらなのですねえ。
で、それがどこから来ているのかというと、やはり父親です。
折に触れ出張って来る、あの父親。
あれに育てられたらこうなるよねえ、なのです。
ただ、あの父親が特別おかしいのではなくて、あの時代のあの階級では概ねどこも同じようなものだったのだろうなあ、という気がします。
アルバートは息子のハーポに対して、自分の父親と同じように接します。
育てられたのと同じように育てる、仕方がないです。
それ以外に知らないのですから。
こうやって男たちは再生産されていく・・・でも、そこへ風穴を開けるのがソフィアです。
ハーポは最終的には父と同じようにはなりません。
ソフィアと新たな関係を築いて行きます。
そして・・・
それを見たアルバートは「ハーポとソフィアがまた一緒になってよかった」という趣旨の発言をするのです。
一生変わることなどないだろうと思われた、あのアルバートが。
変化の兆しです。
時既に遅しで、セリーが自分の元に戻って来ることはありませんが。
最後には、セリーとネティを再会させる重要な役割を果たします。
彼のやってきたことは到底許されるものではありませんが、「人は変わることができる」を見せてくれました。
アルバートの父親はというと、たぶん一生変わらないのでしょう。
変わらないまま年老いて変わらないまま死んでいく。
でも、息子のアルバートはほんの少しだけ償いをしました。
孫のハーポはソフィアとの関係を前進させています。
代々受け継がれてきた悪しきものが抜けてゆくには、世代単位で時間がかかるのかも。
それでも、少しずつでも、変化は生じるのだなあ、と希望を感じさせられます。
ところで、セリーの本当の父親は全く登場しないのかというと、実はそうではなくて。
セリーとネティに財産を遺す、という形で存在を示します。
住む家と、たぶん店舗も(ここは映画ではハッキリわからなかったですが)。
店舗といえば、セリーがパンツの店を開くに至る過程も、原作ではもっと詳しく描写されていたように記憶してます。
これはやっぱり原作も再読してみよう!と思ってます。
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