「グッド・ウィル・ハンティング」を観ましたので感想などをメモしておきます。
原題は「Good Will Hunting」ですが、邦題は「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」となっています。
この「旅立ち」という言葉がピッタリで。
主人公ウィル・ハンティングが過去から解放されて旅立つまでを描いたのが、この映画なのです。
彼の旅立ちに関わる人たちが複数いて、それぞれに魅力的。
親友のチャッキーや恋人のスカイラーなど、若者たちは、当然のように素晴らしい存在です。
眩しいほどに輝いてます。
でもねえ・・・自分がトシを取ったからか、「大人たち」に目がいくのですよねえ。
ランボー教授とショーン。
彼らは「かつて若者だった人たち」です。
彼らは、ウィルのサポートをする中で、自分自身とも向き合わなければならなくなる。
その様が、「大人になってもいろいろあるんだよねえ・・・」な感じで愛おしいのです。
ランボー教授はウィルのためにレールを敷こうとします。
一歩間違えばウィルを壊してしまうかもしれない危険なことなのですが、これを非難する気持ちにはなれません。
自分よりも優れた才能の存在に脅威を感じて苦しみながらも、それを潰そうとはしていないのです。
その才能が花開かないまま終わってしまうことの方が、教授にとっては耐えられないことなのですねえ。
手遅れになってはならない、だから焦って背中を押そうとする。
ランボー教授はショーンに対して屈折した気持ちを抱いているようです。
ふと思ったのですが・・・
ショーンが病気の妻の看病のために職を捨てた時、教授は大反対したのではなかろうか・・・。
キャリアを捨てるのか、人生を棒に振るのか、お前は馬鹿だ、みたいに。
実は自分よりも優秀だと感じている友人が、戦いから離脱していくことに耐えられなかったのではないか。
ショーンの方は、その「戦い」に価値を置いていなかったのだけれど。
そのこともまた、教授には腹立たしい。
その裏返しで、「自分は妬まれている」という根拠のない妄想のようなものを抱いているのかもしれない・・・。
あ、これは私の妄想みたいなものです。
ストーリーの中では、二人の確執の具体的な内容には触れられていませんので。
ウィルへの対応を巡って二人が正面からぶつかり合う場面は圧巻です。
ショーンの主張は心理学の専門家のもの。
だから、正しい。
・・・とは言い切れないものがあります。
ショーンのウィルへの対応は「専門家」の域を越えてしまっています。
カウンセリングというものについては、私にはよくわかりません。
でも、カウンセラーは自分のことは語らないのが基本だと思います(たぶん)。
ショーンはそれを破って、妻とのことをウィルに語っています。
そして、それに背中を押されて、ウィルはスカイラーとの関係を深めていきます。
このあたりはもう、ショーンは「カウンセラー」ではなくて「人生の先輩」という感じ。
実はショーンは、妻の死以来「閉じてしまって自分の殻にこもった」状態になっています。
そこへ現われたウィルが偶然、ショーンの心をこじ開けることになってしまい、通常のカウンセリングの枠を越えた交流が生まれることになったのです。
ショーンは、ウィルへの「治療」と同時に、自分自身へ向き合うことも迫られてしまうのですねえ。
こういう関係は「出会い」と表現するしかありません。
お互いに必要な時に、必要な相手に巡り会ってしまった、ということでしょう。
そして、その相手をショーンのもとへ連れてきたのがランボー教授だったことは、とても大きな意味のあることだったように思います。
ウィルがカウンセリングを「卒業」して去った時、実はショーン自身の「治療」のようなものも一段落したのだ、そんな気がします。
だから、旅に出る気になった。
そして・・・帰って来たら同窓会に出席する、と。
それはランボー教授(そしてその他の友人たち)との友情の復活を意味するのだろうなあ、と思います。
ショーンもまた前へと踏み出すのだろうなあ、と思うのです。
それにしても・・・
ウィル役のマット・デイモンとチャッキー役のベン・アフレック、この二人の若者がこの素晴らしい脚本を書いたとは。
すごいなあ。
とんでもない才能のある人って、実際に、本当に、存在するのですねぇ・・・。