ネタバレになる部分があります。
未読の方はご注意を。
昔読んだことがある。高校生の頃だったと思う。
その時とずいぶん印象が違う。
こんなに後味の悪い話だったっけ?
当時は「出来事」だけを追って、すごい悲劇だなあ、と感じただけだったのだろう。
今回は、語り手である「私」の存在の薄気味悪さから目が離せなくなってしまった。
全ては「私」の語りとして語られる。
その語りから、「何が起こったのか」だけではなく「語り手のキャラクター」が見えてくる。
「私」は自分について「時には間違いをおかすし、配慮が足りないところもある、しかし概ね自分は正しい」と考えているらしい。
そして、妻に関しては「時には正しいし、配慮をしてくれることもある、しかし概ね妻は間違っており、愚かである」と考えているらしい。
何という盲目ぶり!
自分自身が悲劇の元凶であるとは、最後まで気がつきもしない。
もしかしたら微かな気づきは生じたのかもしれないが、もちろん手遅れ。
「私」が息子ジャックと宗教上の論争になる場面が度々出てくる。
これはキリスト教徒でなければ理解は無理かな? と最初は思った。
でも読んでいるうちに、そうでもないな、と気がついた。
「価値」をめぐる親子の対立の話であると考えればいい。
「私」は「正しい道を教え導く」という仮面を被ってジャックを服従させようと試みる。
もちろんジャックは反論する。
しかし最終的には服従した・・・と「私」は勝手な理解をする。
でもそうではなくて、ジャックは「父親の愚かさの基になっている価値観そのもの」を否定する道を選んだ。
それが「改宗」。
・・・こう考えると、キリスト教徒ではない現代日本人にも理解が可能だと思う。
ジェルトリュードの知性や感性が開花していく様子の描写は魅力的だ。
目の見えない彼女に、楽器の音と色を結びつけて理解させようとする試み。
愚かな「私」にも、「いい仕事したね!」と神様から評価してもらえそうな時間はあったのだ。
でも・・・
「田園交響楽」からジェルトリュードが想像する美しい世界。
そこにいる男性、そこに存在すべき男性は、彼女と同世代の魅力的な男性、つまりジャックに決まってるじゃないか! と場外から(本の外から)叫びたくなってしまう。
そして、ジェルトリュードとジャックが結ばれる展開にはならずに、悲劇へと突き進んで行く要因は、外部の環境にあるのではなく「私」の内部にある。
ああ、そうか、だから全てが「語り」で構成されているのか・・・。
高校生の私はそこまでは読み解けなかった、ってことのようです。