「自分は不当に扱われた。」と感じることってありますよねえ。
そんなに大げさなことじゃなくて、たとえば行政の窓口で親切にしてもらえなかった、とか。
人手が足りてないのだろうなあ、機械的な対応になるのも仕方がないのだろうなあ、と思いつつも何だか納得がいかない感じ。
「自分はもっと大切にされるべき存在なのだ。」という感覚。
だけど、この感じ方にはとても大きな問題があると思うのです。
自分が社会に対して差し出している以上のものを受け取ろうとする態度なのかも、という気がします。
「差し出しているもの」とは、たとえば税金。
でも、それだけではなくて、もっといろんなものを含んだ「エネルギー」みたいなもの。
他者への心遣いだとか。
社会には必要だけれど人気のない職業に就くこととか。
社会に対して「こうあって欲しい」と思う、その内容の実現のために必要なエネルギーの総合計。
一人一人が社会に対して「費やしてもいい」と考えるエネルギーの総合計。
常に前者の方が大きいのでは? という気がします。
つまり、常に不足してるってこと。
みんな、自分が投入したものよりも大きな見返りを求めてる。
希望が叶えられないのがアタリマエなのですよねえ。
「自分」という基準から離れてみると、もっとハッキリ見えて来るかも。
自分が直接不利益を受けているワケではないけど「これはおかしい、何とかすべき!」と感じる場合を考えてみましょう。
小さな子供たちが犠牲になる事件が起こると、必ず議論が沸き起こりますよね。
児童虐待はあってはならない、行政はもっときちんと対応すべき! という大合唱になります。
これ、言い換えると「あるべき社会に向けてもっとエネルギーを投入せよ!」ってこと。
でも、必要なエネルギーはどこから調達して来るの? という話です。
税負担が増えるのはイヤ。
どこかに無駄遣いがあるはず、それを見直せ、とか。
貧乏人から税金を取るな、金持ちからもっと取れ! とか。
みんな、「負担は自分以外」と考えているのですよねえ。
児童相談所の職員が足りないって?
もっと若者を福祉職に投入せよ!
でも「大変な仕事らしいねえ、ウチの息子や娘にはさせられない」がホンネ。
すっごいマイナスエネルギーです・・・。
社会と個人、エネルギーのプラスマイナスを考えると、「常に不足」が常態だと思うのです。
足りなければ「配分」の問題になる。
どうしても手薄になる分野が出てきて、そこで事件が起きる。
そしたら「もっと手厚く!」の大合唱になる。
でもエネルギーの補充は難しくて全体量の増加は見込めない。
仕方なく投入先の配分を見直す。
すると新たに手薄になる分野が発生する。
無限ループです。
政治が悪い? 政策がよくない?
いや、それだけじゃない、と思うのです。
自分が社会に対して差し出している以上のものを受け取ろうとする態度。
これの総和の結果だ、という面があると思うのです。
この態度が自分の中にないかどうか。
そこを一人一人が見つめ直さなくては、という気がします。
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