どんなお話かは概ね知っていた「リア王」。
急に思い立って、きちんと読んでみました。
「子供向けシェイクスピア」みたいなもので数十年前に読んで以来だと思います。
1回目、ざっと読んでみたら、昔のままの印象でした。
なんと愚かな老人だろう。
気の毒な末路だ。
でも、自業自得と言うにはちょっと過酷すぎるかなあ。
2回目。
今度はちょっと念入りに読んでみよう。
え?
あれ?
冒頭の会話で衝撃を受けたのです。
ケント「王は、コーンウォールより、オルバニー公がお気に入りとばかり思っておったが。」
グロスター「われわれもみな、いつもそう思っておったのだ。ところが今、いざ王国を分割する段になってみると、どちらを重んじておられるのか、見当もつかぬ。まさしく平等な御配分で、どう細かく較べてみても、たがいに甲乙をつけることができかねる。」
そうか、そうだったのか。
リア王は思慮の足りない愚かな老人なんかじゃなかった。
最後まで読んだ者は、コーンウォールとオルバニー公の人柄を知っています。
知った上で冒頭のセリフを読むと、リア王に人を見る目がない訳ではない、とわかります。
娘婿の人格に差があることをわかった上で、それでも財産の配分には差をつけず、全く平等な分割をしようとしたのです。
「将来の争いの種を断とうと思う」と述べ、王国をきっちりと三等分して娘たちに分け与えることを宣言したリア王は、十分に理性の人に思えます。
どの部分を誰に与えるかも既に決めていて、娘たちに愛の言葉を求めたのも、いわば「儀式」のようなものだったのかもしれません。
ところが・・・
コーディリアがこの空気を破ってしまいました。
そしてリア王は瞬間沸騰。
悲劇の始まりです。
同じ人物の中に理性と短気が同居することって、ありますよねえ。
コーディリアの態度も、潔癖さと若さゆえで、十分理解できます。
不幸な行き違いとしか言いようがないです。
さて、冒頭のセリフのあともケントとグロスターの会話が続きますが、その部分にも注目です。
1回目に読んだ時には「エドマンドの来歴を説明している」という以上の意味を感じなかったのですが、よく読んでみると、それだけじゃない。
グロスターは私生児のエドマンドを軽んじてはいない。
むしろ自慢しているように思えます。
表現は際どいけれど。
愛しているのですねえ。
だからエドマンドの本心に気がつかない。
こうやってきちんと読んでみると、本当に最初の最初から、ひとつひとつのセリフに厚みがあることに気づかされます。
やっぱりシェイクスピアはスゴイ人なんですねえ。
いつかきちんと原語で読んでみたいなあ。
それにしても、登場人物たちの運命は辛すぎます。
なぜここまで徹底的に悲劇にしなくちゃならないんだろう。
ハッピーエンドにしてみたっていいのに。
と思ったら、同じように考えた人もいたのですねえ。
訳者の解説によると、1681年にネイハム・テイトという人が「リア王」をハッピーエンドに改作したのだそうです。
そして、19世紀の中頃まで、このテイト版が舞台で演じられ続けていたとのこと。
でも今はシェイクスピアが書いた元の形に戻ってます。
悲劇の方がよい、それでいい、と感じる人の方が多いってことなのかな。
そのあたり、もう少し深く考えてみたい。
これを機会にシェイクスピアをあれこれ、特に悲劇を読んでみようと思ってます。