先週は祝日が一日あったので映画「疾走」を観ました。
そしたら原作も読んでみたくなったので週末に読みました。重松清の長編「疾走」です。
ものすごく充実した休日を過ごした気分。
そういえば、このところ「殺人」がらみの本や映画を読んだり観たりしてるなあ。
たとえば映画「悪人」。
帚木蓬生の小説「閉鎖病棟」。これは映画も観ました。
なぜ「殺人」?
心当たりはあるのです。
著名な政治家が殺されました。
そして犯人について連日いろいろな人がいろいろな発言をしました。
そのどれもが結局のところ「自分語り」なのです。
それぞれの立場から勝手なことを言っているだけ。
自分が日頃から言いたかったことを、ここぞとばかりに言いつのる。
それを聞いたり読んだりしていると、発言している人自身のことは見えてきます。
でも、犯人自身のことは何もわからない。
「専門家」の発言もたくさんありました。
けれど、専門家が根拠にするのは「自分が採用している理論」。
だから、「専門家」が語る解説やら解釈やらも千差万別。
その当否を判断するには、そもそもの理論の妥当性から考えなくちゃならなくなる。
もう何が何やら、さっぱりわからない。
誰か本当のことを教えて! 一刀両断に! と言いたくなってしまう。
でも、それが一番危険なことなのだとも思う。
殺人犯本人にもわからないことかもしれないのに。
そもそも「本当のこと」なんて、存在しないかもしれないのに。
何かしらの「物語」は存在するのかもしれないけれど。
・・・そんなことを考えているうちに、いろいろな殺人者の「物語」に触れてみたくなったみたいです。
複数の殺人者に出会いました。
「閉鎖病棟」の秀丸。
「悪人」の祐一。
「疾走」の雄二、アカネ。
そして何といっても、殺人犯にはならなかったけれど限りなく殺人に近づいた「疾走」のシュウジ。
善悪とか、原因とか、因果関係とか、そんなこととは離れて、ただただ彼らの世界を感じることができました。
実在の人物ではないからこそのリアリティ、とでもいうのでしょうか。
「人が人を殺す」については、犯罪学でも精神医学でも心理学でも解明はできない、文学で「語る」他はないのかも、なんてことを考えたのでした。
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