先日映画「疾走」を観て、これは原作も読まねば!と思い、早速読んでみました。
断片的ですが感想などをメモしておきます。
ネタバレになる部分がありますので、未読の方はご注意ください。
★二組の兄弟が登場する。雄一と雄二。シュウイチとシュウジ。「兄が原因で弟が辛い思いをする」という点が共通している。現在は神父となっている雄一が語り手。語られるのはシュウジの短い人生。
★シュウジの最初の「疾走」体験は鬼ケンの車に乗せてもらった時。鬼ケンはシュウジにとってのヒーローみたいなものだったのかなあ。
★シュウイチは壊れる前から、ひゃはははっ、と笑っていた。シュウジはぞっとする。この頃既に発病の兆候があったのだろうなあ、と思う。
★映画を観てから原作を読んだ。原作の方が内容が格段に濃い・・・これはアタリマエだと思う。でも「映像ならでは」の表現もいろいろとあった。壊れたシュウイチの描写がそのひとつ。原作からも十分に伝わってくるが、映画のシュウイチの不気味さはすごかった。
★神父は弟、雄二のことを語る。シュウイチと神父の対話、いや対決の緊張感がすさまじい。シュウイチが神父に投げつける言葉は、神父が自分自身に何度も何度も投げかけた言葉と同じものだろう。それでも神父は動じない。向き合い続けているのだろう。シュウジの物語が終わった後も、一生向き合い続けていくのだろう。
★エリのこと、兄のことを言われたシュウジが徹夫の首を絞める場面は衝撃的だ。神父が「間違いだったのだから」と断ち切ったのはどういうことなのだろう。どう考えても「間違い」ではなかったのだが。正しいとか間違っているとかいう意味ではなく、シュウジの衝動は本物だった、という意味で。
★シュウイチが放火犯として捕まった後、シュウジの周囲の人々は弱い人間の本性を現わしていく。父も母も徹夫も。そんな中で「ひとり」になっていくシュウジ。「浜」と「沖」の関係、リゾート開発など、背景が丁寧に描かれるため、シュウジには何の落ち度もないのに、ということが際立つ。
★一度は死のうとしたシュウジ。けれど戻って来る。それなのに・・・雄二との対面は重すぎた。二人を引き合わせた神父はどんなにか後悔したことだろう。しかしこれも運命、ということなのか。
★ロードレースにはエントリーせず、前日に記録を賭けて走ろうとするシュウジ。陸上部顧問との会話の様子が、どこかで聞いたような・・・そうか、エリが教室で髪を切った時の、教師とエリのやりとりだ。シュウジは「エリ化」したのだな。
★そして走るシュウジ。未来へ向けて疾走する・・・が断ち切られる。
★大阪での出来事は映画ではマイルドに描かれているのだろうなあ、原作はもっと強烈なんだろうなあ、と思っていたが、そのとおりだった。何もここまで・・・と思ってしまうほど。けれど、これだけのことがあって初めて「アカネが新田を殺す」という展開に異議を挟まずに読み進めることができるのだよなあ・・・。
★アカネもまた「絶望」の中にあった人間だ。それが子供を授かることによって「守りたいもの」ができた。後に生まれた子は「望(のぞみ)」と名づけられることになる。
★逃げ延びたシュウジ。生きる、と決めたシュウジ。それなのにまた新聞専売所での出来事が追い打ちをかける。読んでいる方も、もうやめてくれ、と言いたくなる。
★ずっと心の中で追いかけて、心の支えになっていたエリと再会するシュウジ。しかしエリもまた絶望の中にあった。以前は「孤高」だったエリが今は「殺して欲しい」と言う。シュウジにとってエリは「守るべきもの」になった。そこから先のシュウジの行動は「エリを守る」という目的に沿って選び取られていく。
★いや、自分のための行動もあった。生まれ育った家に火を放ったこと。警官に取り囲まれた状態で全力疾走したこと。
それにしても・・・
途中でやめたくなってしまうような悲惨さでした。
最後まで読み通したのは「見届けなければならない」と感じさせられたからだと思います。
いろんな人の愚かさを背負って15歳で死ぬ、それがシュウジの運命だったのだ・・・ということなのでしょうか。
それでも人々は何も変わらず、愚かな過ちを繰り返してゆく。
何という残酷な物語・・・でも、心に残る物語でした。
また読み返すことがあると思います。
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